IGS国際シンポジウム報告「明治期のジェンダー、宗教、社会改良:炭谷小梅と中川横太郎」
2017年1月17日(火)お茶の水女子大学にて、ジェンダー研究所主催による国際シンポジウム「明治期のジェンダー、宗教、社会改良:炭谷小梅と中川横太郎」が開催された。本シンポジウムは、ラウラ・ネンツィ特別招聘教授の企画によるものである。ネンツィ氏と同じく、日本の近世史を専門とする、米・スミス大学のマーニー・S・アンダーソン准教授を基調講演に、日本学術振興会外国人特別研究員として東京大学で宗教研究に取り組んでいるエリック・シッケタンツ氏と、米国女性史の専門家である、上智大学の石井紀子教授をコメンテーターとしてお招きした。テーマは、アンダーソン氏が現在取り組んでいる研究プロジェクトに関するものであり、基調講演、コメント、質疑応答を通して、その知見を深く掘り下げる議論が展開された。
アンダーソン氏の基調講演タイトルは「『ヤソがワシの色女を奪りゃあがった』:中川横太郎と炭谷小梅、19世紀日本における生の変容」である。幕末の開国を境に、日本社会における人々の考え方やジェンダー関係がどのように変化したか、またその変化にキリスト教がどのように関与していたかという点を、岡山の地方史から探る内容であった。また、方法論の上では、男女を別々に、当時の男性は、女性は、という分析をするのではなく、カップルとして同じ枠組みの中で見るという新しいアプローチがとられている。カップルの関係性の変化に焦点を当てることで、社会のジェンダー関係やその変化のあり様が、より浮き彫りになるのではないかという試みである。
中川横太郎は、1836年、備前岡山藩主池田家に儒学者として仕える家に生まれ、維新後は、地元の名士として、近代化のための社会改良に積極的に取り組んだ人物である。炭谷小梅は、1850年、下級の武家に生まれ、幼いころに両親が病死。生計を立てるために、得意であった三味線の技能を生かして芸者になり、中川に出会って、身請けされ妾となった。中川の本妻とその二人の息子、そして自身も中川との間に娘をもうけての同居生活であったが、キリスト教との出会いが、これに大きな変化をもたらした。1875年、岡山に最初にキリスト教の宣教師を連れてきたのは中川である。中川と炭谷は、宣教師たちが全国で女学校を作っていることを知り、1878年、28歳の炭谷は、中川の支援を受けて、当時神戸ホームと呼ばれていた、神戸女学院に入学した。在学中に、妾は罪深いものであるというキリスト教の教えに触れた炭谷は、1881年に、中川との関係を解消して、その下を去った。これについての中川の発言が、報告タイトルのセリフである。キリスト教の宣教師を連れてきたことが、後の炭谷との別れという、中川にとって皮肉な結果をもたらした。
離別の後も、二人は、同じ岡山の地で社会改良に取り組んでおり、互いの社会活動のネットワークには重なる部分があったが、キリスト教への姿勢の違いが、二人の軌道を決定的に分けたと言える。中川にとって、キリスト教や宣教師は、西洋の文化や技術、知識をもたらしてくれる存在であり、自らの目的達成のためには大いに利用したようだが、信徒になることはなく、宣教師たちが熱心に説いた、妾制度反対や禁酒については、それらに対する怒りを隠さなかった。その一方で、炭谷は、キリスト教との出会いにより、妾の立場を捨て、新しい主体性を見出して、活躍の場を広げ、地域社会のリーダーという立場を切り拓いていった。アンダーソン氏は、これは、当時の女性に求められた良妻賢母という理想を超えていく道であったと指摘した。二人とも、自ら行動を起こして、新しい社会での新しい役割を開拓していったといえるが、生活のすべてを完全に新しく塗り替えたのではなく、過去から継続して維持されていた生活の側面もあった。中川と炭谷の生を、並行して詳しく分析していくことで、明治の近代化が個人個人の男女にどう影響したかについての理解を深めることができるのである。
続いて、シッケタンツ氏が、中国と日本における仏教と近代性の相互作用について研究している立場からコメントした。まず、ここでのキリスト教の宗派がプロテスタントであり、非西洋社会におけるプロテスタントへの改宗は、近代性に改宗すると同じであると認識されていたということが紹介された。いずれも変化を好むことから親和性がある。また、改宗により「個人」という考え方がはぐくまれて、新しい主体性が生まれた。炭谷と中川の人生の変化、軌道の分離がおきたことの分析として、改宗をきっかけにした主体性獲得が大きかったのではないかという指摘である。その個人主義への理解の差が、中川が考える社会改良と、炭谷が考える社会改良のずれを生んだ可能性もあると示唆した。また、当時の仏教界については、女子教育への関与は、キリスト教の後追いをするように1880年代後半になってから始められたという事や、キリスト教が天賦の人権を説いたのに対し、仏教は、男女の社会的役割分業は、自然の掟として決められているとしていたなどの違いがあったことが解説された。しかし、プロテスタントにも、家庭内における女性の役割の重要さを強調している面があり、キリスト教への改宗が家父長主義からの解放であるということはできないだろうと述べた。そして、明治時代の地方地域社会における社会変化を、国家イデオロギーのトップダウンではなく、ボトムアップの運動実体からとらえる、アンダーソン氏の視点を高く評価し、国家イデオロギーやナショナリズムという抽象的な問題について、炭谷や中川がどのような立場をとっていたかといった探求も加えると、さらに新しい側面を見出すことができるのではないかと提案した。
続いて、石井氏からは、米国人女性宣教師たちの布教活動についての解説を含め、炭谷の社会改良活動をよりよく理解するためのコメントが出された。改宗後の炭谷は、バイブル・ウーマンとしての活動を通じて、岡山の社会福祉や教育分野での影響力を確立していったと思われる。バイブル・ウーマンとは、居留地以外への移動に制限があり、日本文化への理解や日本語の会話力が十分でなかったりした外国人宣教師に代わって、家庭を訪問するなどして布教活動を行った女性たちである。まず女性を改宗させ、次にその家族をという戦略があり、バイブル・ウーマンたちは布教活動において高い成果を上げた。また、多くのバイブル・ウーマンが、改宗して生活を変えた姿は、日本人女性の新しいロールモデルになったともいわれている。この活動を通じてネットワークも形成され、かつ、教会の内外を問わず、地域に献身的に関わったことで、炭谷は、岡山で最も影響力のあるバイブル・ウーマンとなった。当時の岡山には、プロテスタントキリスト教徒の割合が高く、信徒は広い社会階層に存在し、教会と地域の社会福祉のパイオニアたちの関りが深かったなどの地域的特色があり、これが幕末以降の特徴ある社会改良運動をもたらした。また、アンダーソン氏が言及した過去からの継続性に関連し、教会を中心にした新しいネットワークのほかに、江戸時代から続く女性同士の支援ネットワークが継続的に存在してはいなかったのだろうかという疑問も提示された。
質疑応答では、韓国の布教活動との比較、仏教との比較、中川の妻の実家である大西家の人々の教育への貢献、明治の社会改良、特に女子教育、女子高等教育設立における女性たちの役割の重要性など、様々な視点からのコメントがだされ、一組の男女に焦点を当てることから広がっていく歴史理解や、関心の広がりの可能性を感じることが出来た。本シンポジウムの議論の詳細は、後日、IGS Project Seriesの1冊として刊行予定であり、刊行後にはそちらもご参照いただきたい。また、アンダーソン氏のプロジェクトは、書籍刊行を目指したものであるとのことで、新著の完成を待ち望む。
記録担当:吉原公美(IGS特任RF)
【日時】2017年1月17日(火) 15:30~17:30
【会場】お茶の水女子大学本館306室
【基調講演】マーニー・S・アンダーソン(スミス大学)
【コーディネーター/司会】ラウラ・ネンツィ(IGS特別招聘教授/テネシー大学教授)
【コメンテーター】エリック・シッケタンツ(日本学術振興会外国人特別研究員/東京大学)/ 石井紀子(上智大学教授)
【主催】お茶の水女子大学ジェンダー研究所
【参加者数】26名