IGSセミナー「日本文学における父娘関係:欲望・暴力・支配・抵抗」
2021年7月8日(木)IGSセミナー「日本文学における父娘関係:欲望・暴力・支配・抵抗」がオンライン開催された。日本文学において、父と娘の関係を描いた近現代文学は、作品もその研究も、数少ない傾向にある。報告者のレティツィア・グアリーニ氏(国際基督教大学ジェンダー研究センター助教)、菊地優美氏(お茶の水女子大学基幹研究院リサーチフェロー)はいずれも、本学の大学院博士後期課程において、娘の視点から父娘関係を描いた日本の近現代文学作品の研究を進めた若手研究者である。
写真左から:戸谷、グアリーニ、菊地
グアリーニ氏の報告「日本のアンティゴネーたち:角田光代「父のボール」を手がかりに」では、まず、なぜ日本の近現代文学では父娘関係に焦点があてられずにきたのかが解説された。戦後の日本の家庭においては、企業戦士としての長時間労働などが父親の不在をもたらし、母親による子の支配が注目を浴びるようになった。日本文学研究においてもそれがひとつのパラダイムとなったといえる。また、フロイトによる、男子が父を憎み母親を性的に思慕するというオイディプス・コンプレックス論が、20世紀を通じて精神分析のみならず、さまざまな分野に大きな影響を与えてきたゆえに、父娘関係はあまり関心を寄せられないテーマであったことが指摘された。
しかしこうした精神分析論においても、父娘関係の研究に取り組んだ研究者はいる。中でも、グアリーニ氏が注目したのは、Lynda E. Booseである。Booseは、ソフォクレスによる古代ギリシャ悲劇の登場人物のアンティゴネーに焦点を当てた。アンティゴネーは、盲目になった父オイディプスの放浪の旅に付き添い、父の利益のために犠牲になる。Booseは、この父娘関係を統制する機制を「アンティゴネー型」と命名した。アンティゴネー型では、娘との関係において父が息子の役割を演じる故に、母親役を強いられている娘は自己犠牲を払ってまで父の希望に応じなければならなくなる。
アンティゴネーのような娘の姿を描く現代の作品として、グアリーニ氏は、角田光代の短編小説「父のボール」を取り上げた。その主人公も、末期がんで入院している父に寄り添う娘である。しかし、その心中は、尽くす娘のイメージとは異なり、矛盾と複雑性に満ちている。
主人公は父を好きであったことがないと語る。家庭内での父親は、威圧的で、家族を心理的に虐待した。子ども達が成長するにつれて、父は家庭内で権力者として扱われなくなり、弱い存在となっていく。大学に進学し家を出てからは、父の拘束から逃れられたと思っていた。しかし、父と完全に縁を切った兄と異なり、主人公は年に一度連絡を取っており、父との関係を断つことができない。徹底的な嫌悪を抱きながらも、どこかに父親への執着心がある。父を看取る行為は、死を確認することで父の支配から解放され、「ばんざい」を叫ぶためだった。しかし、その時が来ると、お悔やみの声を次々とかけられ、孝行娘の役を演じてしまう。父の支配から逃れようとする中で自覚されるのは、父が家族に信じさせた「不幸のボール玉」の存在と、それが転がってくることへの恐怖心が、いつまでも心のどこかに残っていることである。グリアーニ氏は、その恐怖心こそが、父の支配を徹底的なものにし、「父の娘」を作り上げたのだと示唆した。
菊地氏の研究報告「野溝七生子文学にみる父と娘:父に抗う〈書く〉娘の物語」は、『梔子』と『黄昏の花:Sancta Susanna』という、大正末から昭和初頭に発表された2作品を取り上げ、作家による家父長制批判の分析が示された。野溝文学でくり返し描かれるのは、暴力を伴う父の抑圧とそれに抗おうとする娘の姿であり、そこには野溝自身の父の姿が投影されているという。
『梔子』で娘は、父からの抑圧と暴力を受けながら育った身ではありながら、父に子どもたちへの愛を見出そうとしている。しかし父の側は、父と子の関係はあくまでも「家」制度が規定するものであり戸主としての権利があると主張する。ある意味、父も家父長制に縛られた存在ではあるが、未婚の娘もまた、その「家」に依存せざるを得ない立場である。家制度に疑問を感じつつも、それに抗う術を持たないという葛藤がある。『梔子』で示された娘の葛藤は、短編小説『黄昏の花』では、書くという行為による抗いの力を得る。
『黄昏の花』は、主人公から妹への手紙として書かれている。手紙には、寄寓する尼僧院で目撃した、年長の尼僧たちによる少女への暴力の描写がある。尼僧たちの表情から、暴力を与える側が感じる性的快感が示唆され、そこに、父から受けた鞭打ちの記憶が重ねられる。それはまた、父による娘の性的欲望の抑圧の記憶でもある。そのような暴力の告発と合わせて手紙の中で説かれるのは、女性の性的欲望の肯定と、抑圧する父への抗いである。手紙の結びに記された、修道女の性的欲望を描いたドイツの歌劇『聖女スザンナ』(Sancta Susanna)からの引用がその暗示であると、菊地氏は読み解いた。菊地氏はまた、この作品は、掲載紙である『女人芸術』を読む、「書く」力を持つ女性知識人に宛てられた手紙でもあり、女性への暴力と性的欲望への抑圧に対する抵抗を呼び掛けていると述べた。
質疑応答では、現在も依然として存在する家父長制を背景にした力関係への言及もあったが、グアリーニ氏が強調したのは、それとは異なる新たな父娘関係を描いた文学作品の存在である。また、父の視点から娘との関係を描いた作品もあるとのこと。父娘関係を描いた作品研究の今後の展開が期待される。
吉原公美(IGS特任リサーチフェロー)
《イベント詳細》 【開催日時】2021年7月8日(木)18:00~19:30 |