IGS国際シンポジウム(特別招聘教授プロジェクト)
「アラブ世界の女性と逸脱:グッドとバッドの境界で」
2018年10月14日(日)、お茶の水女子大学にて、国際シンポジウム「アラブ世界の女性と逸脱:グッドとバッドの境界で」が開催された。本シンポジウムは、ジャン・バーズレイ特別招聘教授の企画によるものである。基調報告には、バーズレイ教授のノースカロライナ大学チャペルヒル校での同僚であるナディア・ヤクーブ教授と、ギルフォード・カレッジのディヤ・アブド准教授を迎え、コメンテーターとして、本学の戸谷陽子教授が登壇した。社会規範に照らして「逸脱」とみなされるような、女性たちによる行為や表現について、文化横断的な議論が展開された。
本シンポジウムの基調報告は、2017年に刊行された『Bad Girls of the Arab World』に基づいている。本書は、バーズレイ氏の共編著書『Bad Girls of Japan』(2005年)に触発されての企画である。バーズレイ氏による趣旨説明では、その社会のジェンダー規範に基づく「グッド」の定義が、女性たちのクリエイティビティに限界を設定してしまうが、「グッド・ガール」の定義からあえて逸脱することを選んだ「バッド・ガール」たちが、女性たちによる新しい創作表現を生み出してきたとの解説がなされた。
ナディア・ヤクーブ氏の報告「アラブ世界のバッド・ガールズ」は、アラブ社会の女性たちの「逸脱」が、個々の女性たちにとって、彼女たちが所属する社会の人々にとって、そしてそれを目にする西洋社会の人々にとって、何を意味するかの広範な分析であった。自らの裸体を写真作品として発表した女性アーティストは、女性に身体を覆い隠すことを要求する社会規範への挑戦を、そのような逸脱によって表現した。その一方で、デモに参加し兵士から暴力を受けたある女性のイメージは、本人の希望や選択をよそに、活動家の女性たちからヒーロー像として利用され、ジェンダーと暴力に関する議論のきっかけを作ることになった。反イスラム傾向のある西洋社会では、これらのイメージは一絡げにされて、アラブ社会の家父長制構造への抵抗という、極端に単純な解釈で受け止められた。デジタルメディアの発達は、女性たちによる新しい表現を、アラブ社会全体、そして国境をこえてグローバルに広めることを可能にし、かつ、多種多様な解釈や議論を生み出している。
それらの解釈や議論からは、逸脱の基準は固定的でも明確でもないことがわかる。基本的には規範を作り出しているのは社会である。しかし、その社会を構成する個々人がある行為を逸脱とみなすかどうかは、個人間、共同体間などの動的な相互作用が影響する。例えば、男性だけが女性の逸脱を定義するわけではなく、女性がその境界の線引きをすることもあり、また、西洋のフェミニズムについての学びが、それに変化をもたらすこともある。逸脱は、時には、抵抗や挑戦を意図するものでは全くなく、生き残りの手段として選択されることもある。女性の行為、行動、表現が厳しく規制されることは、人権侵害として国際的な非難の対象となる。しかし、だからとって、アラブ社会の女性たちが、自分自身をアラブの文化的構造の被害者とみられることを良しとしている訳ではない。逸脱の多様な形態を検証することで見えてくるのは、伝統の継承と新しい変化が共存する社会の中で、独創的な試みや挑戦を続ける女性たちの営みのありようなのだ。
ディヤ・アブド氏の報告「米国とアラブ社会における愛情と逸脱を生きる:文化越境者としてのジレンマ」は、ディヤ自身の逸脱の経験の物語である。パレスチナ出身で米国で教育を受けたディヤは、9.11の同時多発テロ以降、米国に住むフェミニストであることと、アラブ・イスラム社会への帰属意識を持つことの折り合いをつけることに困難を感じるようになったという。いずれの文化圏においても「逸脱」した存在になってしまうのだ。その後、ヨルダンの大学に就職した際も、大学の学長や学科長が一番気にしているのは彼女の服装の適切さであった、執筆した論文が反イスラムとみなされた、といった経験をした。ヨルダンでも同じく、意図した訳ではないのに「逸脱」のレッテルを貼られることになったのだ。ギルフォード・カレッジに移ってからは、それなりの心地よさは感じながらも、米国社会への適応の困難を引きずり続けた。
ディヤが難民支援プロジェクト「すべてのキャンパスに難民を」をスタートしたのは、地中海で溺れる幼いシリア難民の姿が世界中で報道された2015年である。アラビアでキャンパスを意味する単語には「避難所」の意味もあることから、大学キャンパスというコミュニティで難民を受け入れることを思いついた。グリーンズボロでは、これまでに、シリア、イラク、ウガンダ、コンゴ民主共和国から42名の難民を受け入れ、定住のサポートをしているという。ディヤにとって、この活動は、自分が帰属する異なる2つの社会、米国とアラブ社会を自らの手でつなぐプロジェクトにもなった。ディヤは、仕事や子育てなどの日々の営み、そして「すべてのキャンパスに難民を」の活動を通して、ようやく、どの社会においても「グッド」であることの不可能さを受け入れられるようになったという。それは、いつも完璧な「良い娘」でいなくてはいけないというプレッシャーからの解放であり、「逸脱」の罪悪感からの解放なのだ。
ふたつの報告に続く戸谷陽子氏のコメントは、米国の演劇とパフォーマンスを研究する視点から述べられた。1960年代の米国のフェミニズム運動のスローガンは「個人的なことは政治的なこと」であり、「ハーストーリー」が語られること、伝えられることが重要視された。その流れの中で生み出された、女性アーティストたちが自身の裸体をさらす作品は、ハーストーリーの語りであると同時に、「バッド・ガール」による行為として、文化的規範を撹乱する役割を果たした。創作行為は男性のものであり、女性の身体は男性の欲望に応じる「美しい」ものであるべきとする人びとからの、批判を浴びたのである。ヤクーブ氏が紹介したアラブ社会の女性たちの表現は、これに続くものである。しかし、21世紀の現代、「ポストポストコロニアル」な社会環境や、技術革新がもたらした情報のトランスナショナルな拡散などを考慮すると、アラブ社会の女性たちの「ハーストーリー」の発信と受容の状況はより複雑になっているといえる。アブド氏のハーストーリーの背景には、そのグローバルな情報や人の移動がある。海外から自国文化を見直すことには、客観的な視点の獲得という利点があるが、異なるふたつの文化を生きる主体にとっては、相反する「グッド」の価値観の折り合いをどう付けたらよいかのジレンマをもたらすことになる。戸谷氏は、このような葛藤の経験は、ふたつの文化の立場や考え方の相違を深く理解することにつながると指摘し、そうした経験を持ったアブド氏のハーストーリーが、米国の高等教育の実践に活かされていることには、大きな意義があると述べた。
これに続く質疑応答では、#Mee too運動の日本における盛り上がりがさほどでなかった点や、セクハラや痴漢被害の女性が声を上げたり、被害者の状況への理解を得たりすることが難しいという現状についての意見交換がなされた。そうした状況は、男女の力の差を容認する社会構造によりもたらされているが、その改革を目指す上での大学の役割について言及もあった。女性の高等教育への進学についてはもとより、その教室や、本シンポジウムのような一般公開の議論の場で、文化表象におけるジェンダーバイヤスを分析する視点を育むことは、日本やヨルダン、米国に限らず、いずれの文化圏においても重要である。活発な討論の様子から、今日この場での議論が、学内外から参集した参加者にとって、価値ある学びの機会であったことを確信している。
記録担当:吉原公美(IGS特任リサーチフェロー)
《開催詳細》
【日時】2018年10月14日(日)13:00〜16:30
【会場】共通講義棟1号館304室
【コーディネーター/司会】ジャン・バーズレイ(IGS特別招聘教授/ノースカロライナ大学チャペルヒル校教授)
【研究報告】ナディア・ヤクーブ(ノースカロライナ大学チャペルヒル校教授)、ディヤ・アブド(ギルフォード・カレッジ准教授)
【コメント】戸谷陽子(お茶の水女子大学教授)
【主催】ジェンダー研究所
【言語】日本語・英語(同時通訳)
【参加者数】59名