IGSシンポジウム「ジェンダーの視点に基づく美術史研究の現在」
2021年12月18日(土)、シンポジウム「ジェンダーの視点に基づく美術史研究の現在」がオンライン開催され、4名の研究者が研究成果を発表した。冒頭で司会の天野知香氏は、美術史におけるジェンダーの視点による研究史を概観し、企画の趣旨を説明した。1970年代以降に導入されたジェンダーの視点は、様式を中心に語られてきた従来の美術史を支える非対称の権力構造を明らかにし、「美術」を社会的な意味作用の体系である「表象」として社会的な文脈の中に読み解く必要性を喚起した。さらに、1980-1990年代にかけて階級、「人種」、民族、セクシュアリティ等々の相互関係も視野に入れながら、大文字の「美術史」に代わる複数で多様な美術史の模索へと展開してきている。ジェンダーの視点は日本の美術史領域にも1990年代以降導入されたものの周縁化されてきた傾向が否めないが、近年美術実践の場においてジェンダーへの関心は高まりつつあり、そうした状況の中今回のシンポジウムが開催された。
研究発表では、まず吉良智子氏が、「近現代日本における『海女』の表象」という題目で、日本の視覚文化(絵画、写真、映画)において多数作られてきた「海女」のイメージを、美術史および関連諸領域における先行研究の詳細な分析をもとに紐解きながら、その延長上に現代の「海女」の表象を位置づけた。江戸時代以降「海女」のイメージは、儒教・仏教社会において男性に尽くす「模範的」女性像や、地方風俗をめぐる性的ファンタジーを体現する「他者」、すなわち「公認されるヌード」として構築されてきた。そこに通底するのは、「海女として労働する姿を描くこと」を口実に女性裸体を描くという、眼差しをめぐるジェンダーの非対称性であり、2014年に三重県志摩市の公認キャラクターに認定され大きな批判を呼んだ「碧志摩メグ」もまたこの系譜に位置付けられる。性的なものとして想像される「海女」は、現代社会においてもなお欲望の対象として作り出され続けているのである。
次に、中嶋泉氏は、「『エロス』の政治学:1960-1970年代の日本の美術」において、国際的に活動した日本の女性及び男性芸術家による戦後の様々な「性」の表現を、文化領域において戦後トランスナショナルに展開した「エロス」を介した「自己解体」の文脈に位置付け、ジェンダーやナショナルなアイデンティティが時に交錯しながら模索された様を明らかにした。例えば、共に女性の性器をクローズアップした作品のうち、オノ・ヨーコの《フライ》(1970)が、抑圧を暗示するものでありながら女性自らによる性の解放や救済を見出し得る作品であるのに対し、《変態周期と過渡現象》(1962)をはじめとする吉岡康弘の作品は、女性の主体的なエロスを拒絶することで、既存の男性的価値観を維持した。また、《アイロン台》(1963)や《無限の鏡の間》(1965)等男性器を想起させる突起物から成る自作の作品と戯れることで、草間彌生が己の性をコントロールする存在として自己を演出したのに対し、工藤哲巳による《インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生》(1961-1962)やハプニング作例は、西欧のヒューマニズムを象徴するものとしてのエロスを否定し、日本人男性としての彼のアイデンティティを再構築した。エロスをめぐるこれらの作品は、国際的な文脈において日本の芸術家たちがジェンダー化されたアイデンティティを表現する場となったのである。
続いて天野氏が、「モダニズムと『女性』芸術家:ロメイン・ブルックスのサフィック・モダニティ」という題目のもと、両大戦間期のフランスで活動し、同時代にも評価を得た女性芸術家、ロメイン・ブルックスを具体例としながら、美術史において「女性」芸術家を研究する視点のあり方を論じた。西洋美術史のカノンにおいて、様式革新を軸に「独創性」を語る従来のモダニズムの語りはエディプス的で非対称なジェンダー構造を持っており、女性の芸術家の主体性や欲望はそこから排除され、抹消されてきた。レズビアンでもあったブルックスが自ら設え、描いたモノトーンの室内は、一種の芸術行為として室内を飾った世紀末の唯美主義者たちの実践を踏襲しつつも、家父長制のもと自宅をアトリエとする女性の芸術家の室内とは異なり、独立した女性としての自分自身を解放する場であった。「モダニティ」を捉えながら、そこで既存のジェンダー規範を問い直していった彼女の《自画像》(1923)は、マニッシュな外出着を纏い、見る主体としてこちらに眼差しを向けつつも、体躯や顔の表現においては男性性とは相容れない様子で画家を表している。これは、19世紀以降の男性芸術家のイメージとしての「ダンディ」や「フラヌール」を想起させるとともに、同時代のギャルソンヌのファッションを取り入れた「新しい女性」でもあり、自身のセクシュアリティの表明でもあった。既存のジェンダー表象を捉え直すことで自身のアイデンティティを可視化し、ブルックスは家父長制のもと抹消されてきた女性芸術家の欲望や創造行為を肯定し、フォルマリズムが捉えてこなかったモダニズムの姿を浮かび上がらせるのである。
最後に、北原恵氏が、「戦時下を生きた3人の女性画家とジェンダー:長谷川春子・谷口富美枝・新井光子」という題目で、20世紀半ばに活動した3名の女性芸術家の軌跡を辿った。画家の長谷川春子は、「大日本陸軍従軍画家協会」の発起人のひとりでもあり、1930年代初頭から従軍画家として戦地に赴き、植民地主義の眼差しと女性への共感を共存させるイメージを残した。谷口富美枝は、川端龍子の教えを受けた日本画家で、家庭から出て生き生きと活動する近代の女性を多数描いた。1938年に青龍社を離れ、戦時中は女流美術家奉公隊でも活動したが、戦後はアメリカに移住した。画家の新井光子は、プロレタリア美術運動やピオニール運動に積極的に参加したが、警察からの弾圧を受け1939年にアメリカへ逃れた。彼女の《胴あげ》(1930)は、英雄的行為や暴力の瞬間、規律のある団体行動を描くことの多い同時代のプロレタリア美術とは異なり、躍動感にあふれユーモアに満ちている。戦時下の彼女たちは、「銃後」と「前戦」をはじめとする既存のジェンダーの枠組みを揺るがす存在であったが、「作戦記録画」の制作や組織形成等ジェンダー化された制度からは排除されることもあった。戦後は、資料の不十分さ、さらに従軍した長谷川の場合は既存のジェンダー秩序を乱す存在であったが故に忘却されていったが、一国主義の美術史観を見直すためにも、今後作品やテキストの再読が待たれる。
研究発表の後、ディスカッサントの香川檀氏によって詳細なコメントが示された。抜粋して以下にその一部を紹介すると、まず吉良氏の発表に関しては、昭和30年代に撮影され近年発表された水中写真家による「海女」イメージにおいて、労働やコミュニティではなく依然その身体に注目が集まり、彼女たちが時として「人魚」にさえ擬えられていることから、発表で提起された性的な「他者」としての「海女」表象は、現在進行形の問題として重要であると指摘された。中嶋氏の発表に対しては、「反芸術」の時代として知られる1960年代初頭を扱った既存の日本美術史の言説に性表現に関するトピックがほぼ見られないことを踏まえ研究の重要性が評価されたとともに、男性芸術家の中で工藤には日本趣味と女装趣味があったことから、彼が性的活力を誇示する男性性に対する反発を持っていたこと、そして、西欧の男性性に対し日本人男性が屈折した思いを抱いていた可能性が指摘された。天野氏の発表に関しては、両大戦間期にレズビアンであることは「モダン」で家父長制からの解放をも意味するものでもあり、そうしたアイデンティティが視覚芸術においてどのように表現されたかを検討することは、「モダニティ」とは何かを検討し直す意味でも重要であると評された。同性のパートナーと暮らした時期があるハンナ・ヘーヒによるフォトモンタージュの自画像を紹介しつつ、ホモフォビアの傾向が否めないモダニズムの文脈において、「サフィック・モダニティ」が「別のモダニズム」を切り開いてゆく可能性が指摘された。そして北原氏の研究は、男性の領域とみなされてきた戦争画に参入した女性芸術家は議論すべきものとして扱われることさえなかった状況があるなか、そこに一石を投じる研究であると評された。さらに、戦争画という「公共の使命」に女性芸術家がどのように応えたのか、また、銃後を描いた多様な作品に、公のナラティヴとの距離感や新規性のある画題への反応をどのように読み解くか、今後の更なる研究が待たれると指摘された。
質疑応答では登壇者から香川氏のコメントへのさらなる応答があり、その後、参加者からの質問に対しても研究発表の内容をさらに深める議論が展開した。本シンポジウムの内容は、2022年度刊行『ジェンダー研究』25号に特集企画として掲載される予定である。
記録担当:内山尚子(広島大学・助教)
《イベント詳細》 【日時】2021年12月18日(土)13:30~17:30 |