IGSセミナー報告「周産期精神疾患、母子間愛着、および情緒的コミュニケーション」
2016年10月31日、米・ミルズ大学のリンダ・ペレス教授によるIGSセミナー「Perinatal Mental Illness, Attachment, and Affect Communication(周産期精神疾患、母子間愛着、および情緒的コミュニケーション)」が開催された。ペレス教授は、本学グローバル人材育成推進センター主催事業、GREAT-Ocha (Global Research Exchange at Ochanomizu University)で講師を務めるため来日した。この機会に、教授自身の研究についての講義も依頼し、グローバル人材育成推進センターとジェンダー研究所で、セミナーを共催した。
ペレス教授の専門領域は発達心理学、幼児教育である。大学での仕事と並行して、カリフォルニア大学メディカルセンターにおいて、臨床心理士としての診療活動もしており、特に、貧困層の、精神疾患や薬物中毒に苦しむ母親とその子どもたちの治療に力を入れている。
講義は、母親個人の問題であると過小評価されがちな、周産期精神疾患(いわゆるマタニティブルーや産後うつ)が、生まれてくる子どもにも大きな影響を与える重大な問題であるということと、母子愛着の形成支援を中心とした最新の治療方法が、中心テーマであった。
ここで言う愛着とは、子どもと、母親に代表される子どもの世話をする人との親密関係のことである。子どもの脳は、妊娠6ヶ月から生後6ヶ月に特に発達する。生後の発達においては、他者、つまり世話をする人とのコミュニケーションが有効である。子どもは、他者を見つめたり、声の抑揚を感じ取ったり、見つめ返されることで、自分の要求に応える人がいることを確認する。こうした、言語外コミュニケーションから世界を知るのである。また、微笑んだり声を出したりすることに応えてくれる人がいるかどうかで、身の安全を確認して、情緒面の安定を獲得する。しかし、こうした情緒的コミュニケーションをとることが難しいと、子どもの発達に影響が出ることがある。母親が周産期に精神疾患を抱えていたり、早産で中枢神経系の発達が不十分なまま生まれてくる場合などである。
ホルモンの急激な変動からおこるマタニティブルーは、ごく当たり前の症状である。しかし、これがあまりに長引く場合は、うつが疑われる。うつのほかにも、周産期精神疾患には、気分障害、不安障害、強迫神経症、心的外傷後ストレス障害(PTSD)、パニック障害、産後精神病がある。また、妊娠以前から精神疾患の病歴がある場合は、周産期に症状が悪化する可能性がある。うつなどの状態の母親は、ストレスホルモンであるコルチゾールのレベルが高く、意欲をもたらすドーパミンと、精神の安定と幸福感を生み出すセロトニンのレベルが低くなる。そして、子どものホルモン状態もこれと同じになるため、子どもは生まれたときからストレス状態になる。また、高いコルチゾール値は、血管の収縮や胎児の成長抑制を引き起こし、低出生体重児や早産という結果をもたらす。
健康な母子であっても、新生児の世話をするのは大変な仕事であり、こうした理由で母子ともに問題を抱えている場合はなおさらである。母親は子どもの様子に注意を払ったり、動作に反応するなど、子どもの要求に応えることが上手く出来ない。子どもも、笑ったり声を上げたりという、母親の注意を引く戦略を持たないため、情緒的コミュニケーションが成り立たない。愛着は、赤ん坊にとって、ストレスやトラウマに対処する手段であり、これによって感情制御を発達させる。しかし、愛着が得られずに過ごすと、激しい感情を制御出来ないままになる。愛着は相互交流であり、反応することされることで、母子互いに感情の制御が上手く出来るようになるのである。
こうした理解に基づき、ペレス教授たちが実施している最新の介入法では、母親に対する感情セラピーを取り入れている。母親との人間関係を持つことで、母親の人間関係スキルを磨き、それを子どもとの情緒的コミュニケーションの中で、自然に発揮できるように促すのである。必要に応じて個別の心理療法や投薬も施していく。早期に発見できれば、早期の介入や予防措置が可能である。家庭内のストレスの軽減も重要であり、そのための、社会的サポートも必要である。周産期の気分障害や不安障害は、母子を傷つけ、ストレスを与える。家族全体のストレスとなることである。言うまでもなく、これは、社会全体の問題でもあり、世界的な課題にもなっていることから、さらなる研究や予防措置の開発が必要である。
その他、講義の中で指摘されたのは、文化的な差異についての配慮である。アメリカは多文化社会であることから、母親の子どもへの接し方にも、文化的な多様性が見られる。治療にあたって、これを無視して、皆にそっくり同じ行動を要求することは出来ない。日本とアメリカの比較においても同じことが言える。研究結果からは、一般論が導き出せる一方で、それぞれの傾向の分析で相違を理解することも必要になる。また、治療や介入に際しては、早急な判断は禁物であることが強調された。例えば、子どもに異常が認められたときは、まずそれが、環境によるものなのか、子ども自身に病気などの問題があるのか、単に性格上のものと理解して良いものなのか、ある程度の時間をかけて見極めた上で対処法を判断する必要がある。
講義そのものは母子関係を中心とした話であったが、質疑応答では、父親の役割や、家族のありようも話題となった。人は、生まれ落ちたその時から、人間関係のスキルを磨き、良好な人間関係を構築し、保つことで、生きる力を強め、維持していく。家族は、子どもにとって、最初に人間関係を持つ相手であり、人間関係は相互作用をもたらすものであることから、子どもを取り巻く人たちの関係性を考慮したケアが、周産期精神疾患への対処においても望まれる。
セミナーは、聴衆にとって、コミュニケーションに重きをおいて患者のケアにあたっている、ペレス教授の人間関係スキルの高さを体感する機会ともなった。終盤で、IT技術の発達によるデジタル・コミュニケーションの興隆への言及もあったが、ペレス教授は、大学での教育にも、対面での人とのつながり形成が大切だと思われる部分は多くあり、すべてがデジタルに置き換え可能なものではないと指摘した。講師と聴衆の対面で行われるセミナーも、参加する人同士のつながりが構成要素のひとつである。講義からは多くの知識を得ることが出来るが、それと同時に、そこで行われている言語外のコミュニケーションからも、私たちは、多くのことを学んでいるのである。
記録担当:吉原公美(IGS特任リサーチフェロー)
《イベント詳細》 【日時】2016年10月31日(月)10:40~12:10 |