IGSセミナー(生殖領域シリーズ)
「商業的精子バンクに関する問題:倫理・ジェンダー・社会的側面から」
精子提供は古くからある生殖技術だが、この技術は、家族、セクシュアリティ、人種、正常性、血縁関係、姻族関係についての先入観を覆すものであり、世界中で政治的、倫理的、規制上の論争の引き金にもなってきた。そして誰に精子提供すべきか、精子ドナーをどのように分類しどうやって選ぶべきか、血縁や姻族といった関係をどのように体系化すべきか、健康リスクのない提供はどのようにしたら実施可能かといった議論も生み出してきた。デンマークに民間精子バンクが出現してきたことで、こうした議論が、国境を越えた精子の販売や生殖医療を求める人々のツーリズムの問題とも絡み合うようになってきている。
デンマークの精子バンクは世界的にも有名であり、近年、精子提供者の不足からAID(提供精子による人工授精)の実施が立ち行かなくなっている日本にも進出してきている。本報告では、エイドリアン氏自身がデンマークの精子バンクと不妊治療クリニックで10年の間隔をあけて行った2つの民族学的フィールドワークの結果を示しながら、デンマーク国境を越えての精子の販売やその利用をめぐってどのようなことが展開されているかを紹介し、デンマークの精子バンクの精子提供が信頼を得てきた過程や、国によって異なる文化や法律、認識がある中でどのように規範的な交渉が行われ、現在の実践へとつながってきているのかを報告した。そして提供精子や生殖ツーリストたちが国境を越えることで起こっている論争によって、どんな規範の変化が起きるのかということについてもふれた。
写真左から:仙波、エイドリアン
エイドリアン氏はまずデンマークの精子バンクの歴史を紹介した。デンマークでは1976年にCentral Sperm Bank Foundationが設立され、これがデンマーク全土への精子の分配を行っていたという。1970年代、デンマークでは不妊治療は公的な生殖医療機関でしか行われておらず、患者もへテロセクシャルのカップルが中心であったため、精子提供もドナーは匿名を基本とし、子どもや周囲へ提供精子の利用を秘密にしておくことが推奨されていた。しかし、1982年にデンマークで初の体外受精児が生まれたことをきっかけに、民間のクリニックでも不妊治療が行われるようになり、それまでの中央精子バンクに加え、民間の不妊治療を行うクリニックの働きかけもあって商業的な精子バンクが誕生することになった。そうした民間クリニックが同性カップルやシングルの女性にも提供精子による治療を実施するようになって、商業的な精子バンクのニーズがより高まったと言える。そして、これまで精子ドナーは匿名提供が当たり前だった状況から、非匿名のドナーの精子提供のニーズも生まれるようになった。
さらに精子の凍結技術や輸送技術の発達に伴って、こうした商業的精子バンクがデンマークのみならず、諸外国へも進出することになった。国境を越えた精子の商業的取引では、精子バンクはデンマークのみならず、ヨーロッパ連合(EU)、および進出する国の法律や規制を順守し、その国ならではの倫理的な側面に配慮することが求められる。そしてさまざまな規範が再構築されることになった。エイドリアン氏は、同性カップルやシングル女性への精子提供をめぐる議論や、ヨーロッパで起こった自己授精(do it yourself sperm)についての政治的な論争の事例なども紹介しながら、生殖技術には差別的な可能性も含まれてはいるが、生殖技術を通して世界を考えることは、どうしたら未来をより明るく差別の少ない世界に変えていくことができるのか、そのヒントを与えてくれることにもなると、自身の考えを述べた。
レクチャーの後には、今、日本でも関心の高い問題であるため、参加者から30件を越える質問やコメントが寄せられ、15分ほど延長して、エイドリアン氏が応えた。
仙波由加里(IGS特任講師)
《イベント詳細》 【開催日時】2021年7月2日(金)17:00~18:30 |